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境内のご案内
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創建が平安中期頃とされる大鳥居で、現在のものは寛永11年(1638)に再建されたものです。今では市街地のメインストリートである三条通との境界に当たりますが、古くは春日大社と興福寺旧境内との境に立つ結界としての役割を持っていました。高さ7.75mの大鳥居で日本三大木造鳥居のひとつに数えられています。3月の春日祭や12月の春日若宮おん祭の際には大きな榊が立てられています。
一之鳥居を入った参道南側にあるクロマツで、若宮おん祭には、 この松の前で「松の下式」が行われます。教訓抄という書物によれば、松はとくに芸能の神の依代(よりしろ)であり、 能舞台の鏡板に描かれている松の絵のルーツとされています。今は後継樹を育成しています。
一之鳥居から萬葉植物園前にかけて真っ直ぐにのびる表参道は、馬場として作られた道といわれています。競馬や流鏑馬の始点がこの橋なので、馬出橋といいます。現在も春日若宮おん祭の競馬はここから出走します。春日大社の馬場の歴史は古く、平安前期に編纂された歴史書である『貞観儀式』や貴族の日記等には、春日祭での走馬についての記録が多数あり、また『権記』や『御堂関白記』には藤原道長の春日詣に関し走馬や競馬(くらべうま)を奉納したという記事も残っています。
春日東西御塔は、一之鳥居より東に進み参道の北側にありました。西側の塔は関白藤原忠実の祈願により建立され「殿下の御塔(でんかのみとう)」と呼ばれ、東塔は鳥羽上皇の祈願により建立され「院の御塔(いんのみとう)」と呼ばれていました。両塔とも現存していませんが遺構が奈良国立博物館の敷地内にあります。
春日大社の境内を描いた春日曼荼羅にはまだ焼失する前の御塔が描かれており、御塔があった当時の風景を想起することができます。
御旅所の参道南側正面にある榊樹。競馬の決勝は馬止橋(まどめばし)でしたが、明治維新後に競馬を再興されたときに、当時の水谷川忠起宮司らの寄進により植栽され、現在の若宮おん祭の競馬の決勝点とされています。
飛火野の一角にある沢で、雪が消える早春の摘草の名所として古歌にもよく詠まれています。「春くれば 雪消の澤に 袖たれて まだうらわかき 若菜をそつむ」(風雅和歌集)
表参道と循環バスの通りの交差点から東南に広がる芝生の原を「とびひの」といいます。古くは「とぶひの」ともいわれ、鹿島大明神が春日の地にお着きになられたとき、八代尊様が光明のため口から火を吐かれ、その炎がいつまでも消えず飛んでいる様に見えたことからこの名がついたとも、飛火が古代の通信施設「烽火(のろし)」の意味であるからだといわれています。
萬葉植物園・荷茶屋の前、水谷川が飛火野へ分水される流れにかかるのが馬止橋です。馬場の終点の橋です。六位橋(ろくいのはし)・鹿道橋(ろくどうのはし)ともいいます。またここは複数の道に分かれる分岐点であることから、仏教における六道輪廻を表す六道と繋がり、鎌倉時代には春日野の下には地獄があるとする春日地獄の思想から、春日明神を信仰する人は地獄に落ちたとしても地蔵菩薩(第三殿御祭神の本地仏)が救い出してくれるという信仰が広まりました。ここはその春日地獄の入口であるとも考えられていたようです。
二之鳥居を入った所にある御社で、平安中期の寛弘3年(1006年)にはお祀りされていた古社です。春日祭の祓戸の儀はこの御社前で行われます。
二之鳥居を入った祓戸神社の脇にある金属製の伏鹿の手水所で、ここで手と口を清め、祓戸神社に参拝の後、御本殿にお参りください。
春日祭の折に御本殿での勅使参向之儀に先立って、式次第を確認される「着到之儀」が行われる建物です。なお、平安中期~後期においては摂関家の子弟が大きく昇進する節目にあたる時期に、春日祭の上卿を勤めており、春日祭が摂関家の中で非常に重要視されていたことを示しています。
春日大社では以下のことを禁止しています